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"アラビア書道"

東京のアラブイスラーム学院では、15人の書道の生徒がコーランの一節を書くのに没頭している。お祈りの声が聞こえると、数人が動きだす。先生も生徒も日本人である。二人だけがイスラム教徒である。ここでは彼らの使っているペン(アラビア語では"カラム")はイスラム世界の多くの伝統である葦でも、日本書道で好まれている毛筆でもない。彼らのペンは日本によく生えている竹である。

何世紀もの間、教養ある日本人は小学校の初等科で書道の伝統を教えられてきた。日展では、書道は専門部門を持つほど重要である。書道鑑賞は多くの日本人にとって一生の楽しみであり、人によっては熟達するため終生勉強するものでもある。しかし、ここ20年の間に、何人かが静かに筆を置き、アラビア語のカリグラフィーに挑戦するために竹筆を取ってみた。そして、意外に悪くないなと分かった。

東京でクラブ経営をしていた高橋ゆかりは、美しいカリグラフィーで構成したエンボス加工の花模様がついたライスペーパーを手に持っている。彼女になぜアラビア書道を勉強しているのかと尋ねてみた。限られた英語で、「大変美しいから」と答えた。退職した総領事、振付師兼ダンサー、東京都退職基金長などの職歴をもつ参加者たちも、アラビア書道への魅力を述べるときにはまず、美しさを口にした。

驚きの声が別のところで上がった。2007年、イスタンブールにあるIRCICA(イスラム歴史・芸術・文化研究センター)での最近の書道コンテストで4人もの日本人参加者が入賞したのである。

「イスラムもしくはアラビア書道の伝統がまだ確立されていない国から、満足すべき、あるいは前途有望なレベルの優秀な作品に出会うことは、喜ばしい驚きである。」とOIC(イスラム諸国会議機構)の事務局長エクメレディン・イフサノール氏は言う。「この予想外のことはこの芸術への新しく起こった興味と発展の証である。この結果は我々に喜びを与えてくれる。」

IRCICAの総裁ハリト・エレンはテーブルを回すことで、驚きを表現する。「もしアラブ人が日本書道で受賞したら、喜ばしい驚きになるだろうか?」

アルハット・アルアラビー(アラビックカリグラフィー)にはいくつかの書体がある。もっとも高度なイスラム芸術の一つとして長い間見なされてきた。日本で書道という単語は"書く方法"という文字に当てはめられる。それは仮名(日本文字)もしくは漢字(中国文字)で定められた文字の書き方を意味する。日本で認められた芸術大家の本田フアード孝一はアラビックカリグラフィーの型と練習をアラビア書道(アラビア文字を書く方法)と呼んでいる。

東京から電車で50分、青い海岸線とみずみずしい緑の丘を見せながら、もうひとつの日本が自らを語り始めている。本田が、着物の染色家である彼の妻、美津子と住んでいる逗子に到着した。

階下が本田のスタジオである。床には、大きな青い背景の上に乱雑に置かれた鉛筆書きの製作途中の作品の紙片が置かれている。

「私の作品は伝統的な書道とかなり異なっています。」と彼は言う。伝統的な作品は、アラビア語の本文の周りを、幾何学や自然物で形作ったイルミネーションで取り囲んで構成されている。また、時には、トルコ語でエブルと本田が呼んでいるマーブル紙に作られる。

「私は、最も適したデザインと色を言葉の意味にぴったりと合わせるように考えています。このコーランの章、ヤー・シーン章はアッラーの偉大さを賞賛しています。この大変濃くて深い青やウルトラマリンの色を使います。海の深さのような、宇宙の真ん中にいるような、これらの青を超えて多くの文字があります。この青色は何か具体的なものを表しているわけではなく、私の表現のイメージです。」

本田は1999年にトルコの大家ハッサン・チャラビー師匠から書道の免状(イジャーザ)を授けられた。師匠は本田が作品の紙片のために選んだ伝統的なジャリー・ディーワーニ書体を保証している。「私は既存のルールを破らないつもりです。伝統的な形に勝ることができないからです。」

日本人がアラビア書道を賞賛するという背景にある文化的価値について、小杉泰教授が答えたシンプルな回答は書道生徒の「美」という言葉をそのまま繰り返した。「なぜなら美が目標だから。」「われわれは美を求めなければならない」。

私は京都大学のラウンジに座っている。小杉は京都大学でイスラム世界の大学院研究課程を教えており、また日本中東学会の会長に就いている。

「美は個人の洞察ではないと思います。」と彼は続けた。「美は個人の意見ではありません。書道は美の集合的な感情をベースにした芸術だと思います。」

「もう一つの日本の文化的要素は外国のものへの好奇心です。」と付け加えた。

日本人がアラブ文化と最近ふつうに接触するようになったのは1970年代である。それとともに、アラビア書道を初めて新たに見る機会がやってきた。

小杉は説明してくれた。日本書道は「少なくとも1万の文字があります。さてアラビア書道を見ると、何と驚くことに、美の追求は同じ方法で、しかし全く異なるやり方だと分かったのです。」

小杉の意見では、「広がり、深さ、エネルギー」において、アラブとアジアの書道は人間の歴史においてもっとも偉大な歴史的な2つの書道伝統であると。

二週間ごとに、JACA(日本アラビア書道協会)の本田のパートナーである山岡幸一は横浜から600キロ離れた日本の歴史的中心地の京都、大阪、神戸へ向かうために新幹線に乗る。そこにアラビア書道の講座を持っている。新幹線に乗っている時、彼は言う。「イスラムについて知らない人が多いです。ただ、ムスリムは4人の妻を持てるとか、豚を食べないとか、単に表面的なことしか知りません。だからアラビア書道を教える時に文化的背景も教えることにしているのです。」

山岡は1980年代初めにサウジアラビアに4年間過ごした。その10年後、アラビア書道を始めた。最近、会社を早期退職し、JACAを手伝うことにした。「私は日本でアラビア書道を仕事にしようと決めました。何かできると思うのです。」

京都は1000年もの間、天皇家の御座があった。山岡の講座の広告文には、"アラビア書道の世界へようこそ。第一木曜日、14:45~16:45。月4,200円。2講座"となっている。

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京都の講座には、今日は3人の女性しかいない。彼女たちはここで1年半前から習っている。美味しそうな抹茶ロールを取り分け、書道を書いている。芸術のこと、生活のこと、子供たちのことなどを話しながら。

「私たちはアラビア書道のフィーリングを一致させようと試みている。」とアリサイヤド真奈美は言う。彼らはみんな「アラビア書道の支柱を建てることに専念している。アラブ文化、アラビア書道、そしてアラビア語と」。

山岡の大阪のクラスに、数日前東京のクラスで見たばかりの女性、木下千恵子を見て驚いた。彼女は再びコーラン開端章の真ん中あたりの長いストローク(マッダ)の部分を淀みなく書いていた。私は彼女が会社の普通の職員で、広島からやって来ていることに驚いた。東京から850キロ、5時間もの旅である。今日は大阪に来るため、350キロの旅行をしている。彼女は、「大変熱心な生徒です。」と山岡は言う。

彼女にとっては、「ただ文字そのものが美しいのです。一種のアート...たぶんアートが最も重要な部分でしょう。」と。

山岡は生徒たちがアラビア書道の動機を言葉にするのはしばしば難しいと付け加えた。「人生のこと、楽しみのこと、趣味の意味を説明するのはかなり難しい。ヒストリーを持っている方もいるし、持っていない方もいます。また、ただフィーリングだけという方もいます。」

本田にとって、そのフィーリングはゆっくりやってきた。1969年に東京外国語大学を卒業した時、彼は「再びアラビア語の本を開けまいと決めました。アラビア語も教授たちも好きではありませんでした。ただ文法を教えてくれただけで小説も読むこともできませんでした。」

しかしながら、初めての仕事の5年間は、その不本意なスキルでサウジアラビアの仕事に就くことができた。サウジアラビアでは、口語アラビア語と文語アラビア語との違いに途方に暮れた。しかし、好奇心と忍耐強さが優った。

「毎日、私は市場に出向き、現地の人々と話しました。『これは何というのか教えてください。』。私はすべての単語をカタカナで記録しました。本当の意味で、私の先生たちは大学ではなく、運転手、店員など一般の人々だったのです。」

本田はすぐにアラビア語に上達したので、サウジ石油省傘下の鉱物探査チームを率いることに選ばれるようになった。翌3年間はほとんど完全に砂漠で過ごした。そこでは仲間はだいたいベドウィンだった。「自然の変化に敏感になりました。」

「アラビア半島の南部のルブアリハリの砂漠地域を見たときに、砂漠の動きの美しさ、生き物のように砂丘の自然の流れに惚れ惚れしました。足元を見ると、風の動きによって作られた指紋のような美しい印刷。アラビア書道、アラビア文字の動きに大変似ていると思いました。現実に戻った時、生き生きとした記憶が脳の中に残っていました。特に砂漠の美しい風景が。砂丘と書道は私自身の中で一緒に結びついたのです。」

1979年、本田はイスラム教に改宗しムスリム名フアード(「心」の意味)を受けた。アラビア語を教え、そしてアラビア書道を独学した。1980年代遅くから1990年代の初めにかけて、彼は世界的な書道の舞台に登場した。

書道大家、日展会員である江口大象のスタジオで、山岡は直ちに、毛筆の筒の部分からナイフを巧みに使い、竹の筆を作っていた。江口は筆壺のところに行って、その中から、マングースの毛の筆を取り出した。彼は少しだけ山岡の方にお辞儀をした。

江口は長く引き継がれている書道名人と流派の申し子である。60年にわたり書道の一生徒であった。私はアラビア書道の"書道"の部分をより理解するために江口のスタジオにやって来ていたのである。

江口はアラビア書道を見たことがなかった。山岡は実演してみせた。江口は地味な灰色のカーディガンを羽織り、私の目の前で笑っている。「私はアメリカに以前行ったことがあり、いくつかの墓地を訪れた。石碑には、刻印はあったが手書きではなかった。だからアメリカやヨーロッパの人は手書きの「文字」に余り興味がないのだなと思った。」

彼は自論を説明してくれた。「侘び・寂びは線の中にある。誰かが線を書くと、線はその人そのものを表す」(侘び・寂びの概念には感性の部分や審美性の部分があり、日本人が美を理解する核になっている。単に"無常"、"質素"、"曖昧"、"不完全"そして時には"不確定性"と定義されるが、その全てがその意味に含まれる)。

江口は言うより示す方が良いと判断する。山岡は厚めの白い紙を掴み、一方、江口は長い和紙を取り出す。アラブとアジアの書道家は二人の紙の選び方で千年を経て入れ替わった。もともと、パピルスは中東で使われていた。その粗い表面は書道の精緻さを書くのに適していない。ムスリムの書道家が草書体で線のスムーズな流れを完璧に書くことができたのは、中国の磨いた紙の発明とともにあった。しかし、江口の和紙はザラザラで、パピルスのように繊維が表面に見える。それは均一に墨を吸い込まず、書いた漢字に様々な風合いを与えている。

江口は筆を一回だけ硯の墨汁の中に浸した。テーブルに体を傾け、感情を抑制して、1,2,3,4,5,6,7,8画と漢字の順番に上から下まで動かす。それから、同じ筆を使って、署名を小さな漢字で書いた。全部で10秒とかからない。(彼が言うことには、日展に出すような本格的な作品には、4分ほどかかると)。

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一方、山岡は椅子に座り、竹筆に墨を付ける。手で紙をしっかりと押さえた。そして、書き始める。ゆっくりと、慎重に。ペン先が紙をひっかく音が聞こえる。それは遠くで鳥がさえずるように。小さな一画でも、筆を戻して、さらに墨をつける。飾りではない、思慮に富んだ点で終わった。

江口は生まれて初めて1300年の歴史をもつ漢詩と1400年の歴史を持つコーランの章句を並べて見ている。素人目にも、二つの書は喜びへの満足感から畏敬の念さえ引き起こす。

江口は「書道は芸術ではない」と言う。「文字と文字の間の空間が重要な部分の95%ぐらい、残り5%が漢詩を読める能力である。書道はおもにデザインの雰囲気が目的である。」

小杉泰教授に尋ねると、アラビア書道の成長は文化的親近感であるという。「日本は少なくとも2000年の間世界の文明から取り込んできたのです。」

「日本人は自分の手で竹を削ってペンを作ってきました。竹は、伝統的な芸術に対しこの国の植物として非常に高く尊重されるものです。」と小杉は言っている。「私はアラビア書道の葦ペンの価値に直ちに対応するものだと思います。(アラビア書道は)日本人だけに獲得できる何かがあります。なぜなら、日本人が究極的にあるものの融合-美の追求-をアラビア書道のようなものとともに考えているからです。」

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「なぜレッスンを受けるために女性が月二回広島のように遠いところからやって来るのかをそのことで説明できます。中国の唐時代、日本はそのちっぽけな島国から美を求めて中国に留学生を送ったのです。美そのものが真実だからです。」

日本の指導的な政治家の一人のホームページでは踊っているロボットを特集している。ロボットはアラブ音楽に合わせてダンスをしている。

「たいへんキュートでしょ?」と、環境大臣として2004年から2006年、防衛大臣として2007年に就いたことがある小池百合子は言う。現在は自由民主党の広報部本部長に就いている。いつか日本初の女性総理大臣になるかも知れないと言われている。

「私は人々の目を中東に向けようとしています。なぜならその地域は日本にとって重要だからです。」

小池の事務所で、アラビア語のシャムス("太陽"の意)という単語が大きな額に入ったキャンバスで目立っている。

「私はただ古い毛筆を取り、好みのアラビア語の単語を書く、それだけ。その単語が読めるかどうかは気にしていないの。なぜならそれはアートだから。ただアラビア文字が好きだから。書道の古典的な規則を学ぶ暇がないの。ただ、自分でそれを楽しんでいるだけ。わたちの趣味です。」

石油商だった小池の父親が持って帰った旅行のお土産の影響により、小池は中東の魅力に火が付いた。小池はカイロのアメリカン大学で勉強を続け、今でも中東に関係する会議に出席する時やアラビア語でテレビインタビューを受ける時にはアラビア語を使っている。

小池はエジプトから日本に戻り、そしてテレビのニュースキャスターとして働いた後初めて、書道を始めた。「テレビキャスターとして、政治家として、いつも直筆で何かを書いたり、サインを求められたりします。日本語のありきたりのサインでは面白くなかったの。そこであることを発明したんです。」と彼女は言う。日本では、直筆でサインをするだけではなく、お気に入りの言葉や文字を付け加えるのが一般的である。

"サラーム"と"シャムス"が書かれた典型的なサイン帳を軽く叩きながら彼女は言う。「こういう風に、漢字よりもアラビア文字を使い始めたのよ。人々は気に入ってくれてるみたい。これが私のスタイルです。」

小池は慎重に木箱を開け、そしてその中身の包みを外した。彼女が言うには、国の仕事で海外に行く時には、「自分でお土産を持って行きます。アメリカのアーリントン国立墓地に行った時、公式にそこを訪問する人は何か典型的なお土産を持って来るように言われるの。」(その墓地には、第二次世界大戦中日本と闘った者の多くを含む、アメリカ兵が埋葬されている。)

箱からは友人のアーティストによる手製の豪華な陶器の茶碗がでてきた。それには、小池の手でアラビア書道の「サラーム サラーム」、すなわち「平和 平和」と書かれていた。

「日本の防衛大臣が陶器の上にアラビア文字で「平和」と書いている。それって何かあるんじゃない?」

小池は本田を賞賛している。「彼は新しい展望を生みだそうとしています。」

小池は自身の作品について言う。「毛筆は中国、文字はアラブ、墨は日本、そして私は日本人。それって3つの文化の融合でしょ。」

学生時代の仲間のように、それぞれのアラビア書道家たちは世界の偉大な2つの書道文化を少しだけ近くに引き寄せている。